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細川ガラシャは、戦国武将明智光秀の娘で、本名を玉子と云います。
織田信長の勧めで細川藤孝の嫡男忠興の元へ嫁ぎ、幸せな日々を過ごしていましたが、明智光秀が主君織田信長を討った本能寺の変で事態は一変、玉子は京丹後市弥栄町味土野(みどの)に幽閉されました。
彼女はこの地でキリスト教に触れ、後に信仰に救いを求めてガラシャ(※)の洗礼名を授かります。関ヶ原合戦前夜、東軍に荷担する武将の正室を人質に取ろうとした西軍の軍勢が大坂の細川屋敷を急襲した折、人質となることを恐れたガラシャは家臣に長刀で胸を突かせ、屋敷に火を放たせました。そして、燃えさかる炎の中で壮烈な最後をとげました。享年三十八歳の若さでした。
※ガラシャとは、ラテン語で「神の恵み」を意味します。
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≪ガラシャ夫人略伝≫
夫人の名は玉子。永禄六年(一五六三年)明智光秀の第三女として生まれる。天正七年十八才の時、織田信長の命により丹後田辺城(現舞鶴市)の城主細川藤孝の嫡男忠輿に嫁いだ。天正十年六月本能寺の変が起き、光秀は忠輿を味方に誘ったが、忠興はこれをきかず夫人を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し光秀と山崎に戦った。
夫人にとって実父である光秀の死後、家臣は自刃をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命をきかずして事を決することは婦道にそむくことです。」とこれをきかず二年の月日をこの地で過ごす事となった。秀吉はこれを憐み忠興をさとし再び妻として夫人をむかえることなった。その後キリスト教に入信「ガラシャ」の洗礼名を受けた夫人は、忠隆・興秋他三子をもうけた。
しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(一六〇〇年)関ケ原の戦の折、徳川家康に従い東征中の夫忠輿の留守を守り大坂の細川屋敷にいた夫人は石田三成の軍勢に囲まれ人質として大坂城入城を迫られ「私が人質として入城すれば堅武士の夫君忠輿の足手まといとなります。」と家臣に長刀で胸を突かせ、屋敷に火を放たせた。燃えさかる炎の中で壮烈な最後をとげた。享年三十八才の夏のことである。数奇な運命に彩られ、夫忠輿のため殉じ果てた夫人の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
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